本記事では、行列のトレースに関連する主要な不等式について解説する。
これらの不等式は、線形代数、量子情報理論、作用素解析など多くの分野で中心的な役割を果たす。本稿では、Wikipedia の Trace inequality の内容を基に、主要な定義と定理を整理する。
- トレース不等式
- 証明スケッチ
- 本記事全体のまとめ
トレース不等式
まず、エルミート行列と半正定値行列、ならびに行列関数の定義を確認する。
\( \mathbf{H}_n \) は \( n\times n \) のエルミート行列全体の集合を表す。
区間 \( I\subseteq \mathbb{R} \) 上の実関数 \( f \) に対して、エルミート行列 \( A\in \mathbf{H}_n \) の固有値を \( \lambda_j \)、対応する射影を \( P_j \) とするとき、行列関数 \( f(A) \) は
f(A)=\sum_{j} f(\lambda_{j})\, P_{j}
で定義される。ここで、\( A=\sum_{j}\lambda_{j}P_{j} \) はスペクトル分解である。
本記事では、作用素単調性、作用素凸性、トレース関数の単調性と凸性など、後に登場する不等式の基礎となる性質を順に示す。
* Araki–Lieb–Thirring 不等式
次に、荒木によって示された一般化について述べる。
荒木(H. Araki)は1990年に、アラキ–リーブ–シアリング型の不等式を次のように一般化した。すなわち、任意の \( A \ge 0 \)、\( B \ge 0 \)、および任意の \( q \ge 0 \) に対して、次の不等式が成立する。
\operatorname{Tr}\!\left((BAB)^{r q}\right) \le \operatorname{Tr}\!\left(B^{r} A^{r q} B^{r}\right), ここで \( r \ge 1 \) は任意である。この不等式は、リーブとシアリングによる 1976 年の元の不等式
\operatorname{Tr}\!\left((BAB)^{r}\right) \le \operatorname{Tr}\!\left(B^{r} A^{r} B^{r}\right) の自然な拡張になっている。アラキの一般化では、指数 \( rq \) と \( r q \) が登場し、より広いクラスの冪に対して同様の単調性が成立する。
この種の不等式は、作用素の冪、冪乗平均、エントロピー型量、量子情報論など多くの分野で応用を持つ。特に、正作用素の間における「順序構造」と「凸性・凹性」の関係を調べる際に中心的な役割を果たす。
* Golden–Thompson 型不等式(Lieb の三項不等式)
Lieb の三項不等式(Golden–Thompson の一般化)
リーブ(E. Lieb)は 1973 年、Golden–Thompson の不等式を一般化する強力な結果を示した。これは「Lieb の三項不等式」と呼ばれる。
任意のエルミート行列 \( A, B, C \in \mathbf{H}_n \) に対し、次の不等式が成立する。
\operatorname{Tr}\!\left(e^{A + B + C}\right)
\le
\operatorname{Tr}\!\left(e^{A} \, e^{B} \, e^{C}\right).
この不等式は Golden–Thompson 不等式
\operatorname{Tr}\!\left(e^{A+B}\right)
\le
\operatorname{Tr}\!\left(e^{A} e^{B}\right)
を特別な場合として含む。Lieb の三項不等式は、エントロピーの凸性や相対エントロピーの単調性を導く際にも中心的な役割を果たす。
特に、リーブによるこの不等式の証明には、後に「Lieb の凸性定理」と呼ばれる結果が登場し、量子情報理論における強力な道具として広く使われている。
* Lieb の凸性定理・凹性定理
Lieb の凸性定理の証明スケッチ
対象の関数は
(A,B) \mapsto \operatorname{Tr}(K^{\dagger} A^{p} K B^{1-p}),\quad 0\le p\le 1
証明のアイデアは以下の通りである:
- ピンチング作用素(pinching)を使って対角化に近い形へ押し下げる。
- 変分表現(variational representation)を導入し、凸性/凹性を「ユニタリ平均」で判定する。
- Kubo–Ando 作用素平均の性質を利用し joint concavity を示す。
- この joint concavity が相対エントロピーの単調性を導く。
* 強サブアディティビティ(Strong Subadditivity, SSA)とその帰結
強サブアディティビティと Lieb の凸性定理
リーブの凸性定理(Lieb’s Concavity/Convexity Theorem)は、量子情報理論における最も重要な不等式のひとつである強サブアディティビティ(Strong Subadditivity, SSA)の証明に直接的に用いられる。SSA は量子エントロピーの基本的性質であり、多くの情報理論的不等式の基盤をなす。
状態 \(\rho_{ABC}\) に対するフォン・ノイマンエントロピー \[ S(\rho) = -\operatorname{Tr}\left(\rho \log \rho\right) \] を考える。SSA とは次の不等式をいう。
S(\rho_{AB}) + S(\rho_{BC})
\;\ge\;
S(\rho_{ABC}) + S(\rho_{B}).
この SSA の成立は、量子相対エントロピーの単調性 \[ D(\Phi(\rho)\,\|\,\Phi(\sigma)) \le D(\rho\,\|\,\sigma) \] の帰結であるが、その単調性の証明の核心にLieb の凸性定理が存在する。
具体的には、Lieb が示した次の関数の joint concavity が鍵となる。
(A,B) \;\mapsto\; \operatorname{Tr}\!\left(
K^{\dagger}\, A^{p}\, K\, B^{1-p}
\right),
\qquad 0 \le p \le 1.
この joint concavity は複雑な変分表現を通じて相対エントロピーの単調性を導き、さらに強サブアディティビティを保証する。これはエントロピーの性質に関するあらゆる量子不等式の中でも最も深い結果のひとつである。
なお、Lieb–Ruskai (1973) によって、強サブアディティビティの完全な証明はこの joint concavity とそのアプリケーションをもとに与えられている。
* Lieb–Thirring 不等式の応用例(スペクトル理論・量子多体系)
Lieb–Thirring 不等式は、量子多体系やスペクトル理論における基礎的かつ強力な道具であり、シュレーディンガー作用素の固有値評価、安定性の議論、電子気体のエネルギー評価など、多岐にわたる応用を持つ。
典型的には、シュレーディンガー作用素 \[ H = -\Delta - V(x) \] に対し、その負の固有値を \(\{\lambda_j\}_{j}\) とすると、Lieb–Thirring 型の評価は次の形で与えられる。
\sum_{j} |\lambda_j|^{\gamma}
\;\le\;
L_{\gamma,d} \int_{\mathbb{R}^{d}} V(x)_{+}^{\,\gamma + d/2}\, dx,
ここで \(V(x)_{+} = \max\{V(x),0\}\)、定数 \(L_{\gamma,d}\) は次元 \(d\) と指数 \(\gamma\) のみに依存する。 この不等式は、負エネルギー固有値の和の評価(特に束縛状態の数)を与える。
* 量子多体系の安定性(Stability of Matter)
Lieb–Thirring 不等式の最重要な応用の一つは、物質の安定性(Stability of Matter)の証明である。電子が多数存在するフェルミ系では、パウリの排他原理が重要であり、電子の運動エネルギーは下から
T \;\ge\; K_{\mathrm{LT}} \int \rho(x)^{5/3} dx
という形で評価される。この指数 \(5/3\) はフェルミ気体のスケーリングから自然に現れる値であり、Lieb–Thirring 不等式が与える最適指数と整合する。
この下界があるため、電子が多数存在してもエネルギーが無限に低下することはなく、物質が崩壊しないことが示される。1967 年に Dyson–Lenard が最初の証明を与え、その後 Lieb–Thirring の不等式によってより簡明で本質的な議論が可能になった。
* スペクトル理論における応用
Lieb–Thirring 不等式は以下のような多様な場面で使われる。
- 負の固有値の総和や個数の評価(CLR 不等式との関連)
- ランダムシュレーディンガー作用素の局在解析
- サマーフェルト–ウェイリー型の分布関数評価
- 多体量子系における基底エネルギーの下界評価
これらの応用はいずれも、固有値の「分布」をコントロールするための強力な解析的ツールとして Lieb–Thirring 不等式が機能していることを示している。
- One-body / Many-body Lieb–Thirring Bounds(一次/多体系版)
- CLR(Cwikel–Lieb–Rozenblum)不等式との関係と比較
* One-body / Many-body Lieb–Thirring Bounds(一次版・多体系版)
Lieb–Thirring 不等式には一次(one-body)版と多体系(many-body)版が存在する。これらは互いに密接に関連し、特に量子多体系のエネルギー評価において重要である。
One-body Lieb–Thirring Bound(一次版)
一次版とは、シュレーディンガー作用素 \[ H = -\Delta + V(x) \] の負の固有値 \(\{\lambda_j\}\) に対して成立する評価であり、次の形に対応する。
\sum_{j} |\lambda_j|^{\gamma}
\;\le\;
L_{\gamma,d} \int_{\mathbb{R}^d} V(x)_{-}^{\,\gamma + d/2}\, dx.
ここで \(V_{-} = \max\{-V, 0\}\) はポテンシャルの負部分である。この評価はスペクトルの「一粒子」的性質を直接記述している。
Many-body Lieb–Thirring Bound(多体系版)
フェルミ粒子 \(N\) 個からなる系を考えると、ハミルトニアン \[ H_N = \sum_{i=1}^{N} -\Delta_i + \sum_{i=1}^{N} V(x_i) \] に対し、運動エネルギーの下界として次の多体系版が成立する。
\langle \Psi,\, T\, \Psi \rangle
\;\ge\;
K_d \int_{\mathbb{R}^{d}} \rho_{\Psi}(x)^{1 + 2/d}\, dx,
ここで \(\rho_{\Psi}(x)\) はフェルミ系の一体密度であり、\(K_d\) は次元のみに依存する定数である。 指数 \(1 + \frac{2}{d}\) はフェルミ統計から導かれる最適なスケーリングであり、特に \(d = 3\) では \[ 1 + \frac{2}{3} = \frac{5}{3} \] となる。これは物質の安定性の議論で中心的な役割を果たす指数である。
一次版と多体系版の関係
多体系版の不等式は、一次版の Lieb–Thirring 不等式を基礎として導かれる。 特に、密度行列のスペクトル分解と、パウリ排他原理の「占有数の制約」を組み合わせることで、多粒子の運動エネルギーを一次版の固有値評価に還元できる。
この構造により、一次版の不等式(固有値の分布の評価)は、フェルミ多体系における運動エネルギーの下界として自然に現れる。そのため、多体系の量子力学を解析する際に、Lieb–Thirring 不等式は不可欠な道具となる。
* CLR(Cwikel–Lieb–Rozenblum)不等式との関連と比較
CLR 不等式(Cwikel–Lieb–Rozenblum 不等式)は、シュレーディンガー作用素の負の固有値の個数に関する重要な評価である。Lieb–Thirring 不等式が負の固有値の \(\gamma\) 乗和を評価するのに対し、CLR 不等式は負の固有値の個数そのものを直接評価する点で特徴的である。
典型的な CLR 型の評価は次の形をとる。シュレーディンガー作用素 \(H=-\Delta - V(x)\) の負の固有値の個数を \(N_{-}(V)\) とすると、
N_{-}(V)\;\le\; C_{d}\int_{\mathbb{R}^{d}} V(x)_{+}^{\,d/2}\, dx,
ここで \(V_{+}=\max\{V,0\}\) であり、定数 \(C_{d}\) は次元 \(d\) のみに依存する定数である。CLR 不等式は、負の固有値の個数がポテンシャルのある種の \(L^{p}\) ノルムによって制御されることを示している。
Lieb–Thirring 不等式と CLR 不等式は密接に関連しており、一般には Lieb–Thirring の評価は CLR を含意する(適切なパラメータ領域で)。逆に CLR から一次版の特定のケースを導くことも可能であるが、定数や指数の最適化という観点では両者に微妙な違いがある。
応用面では、CLR は「束縛状態の数」の評価に直接結びつくため、スペクトル密度の評価や場の理論、統計物理の問題で有用である。一方で Lieb–Thirring は固有値の重み付き合計を与えるため、基底エネルギーの評価や多体系のエネルギー下界の導出に特に重要である。
以上を通して、トレース不等式群(Lieb–Thirring、Araki–Lieb–Thirring、Golden–Thompson、Lieb の凸性定理、CLR など)は互いに補完し合い、スペクトル理論、量子情報、量子多体系解析における基盤的ツールとなっている。
証明スケッチ
① Golden–Thompson 不等式
Golden–Thompson 不等式の証明スケッチ
不等式は
\operatorname{Tr}(e^{A+B}) \le \operatorname{Tr}(e^{A} e^{B})
である。証明の核は次の通りである:
e^{A+B} = \lim_{n\to\infty} (e^{A/n} e^{B/n})^{n}Hölder の不等式とトレースの単調性を組み合わせて
\operatorname{Tr}((XY)^n) \le \operatorname{Tr}(X^n Y^n)を逐次適用。
極限の取り扱いにより不等式が成立する。
② Lieb の凸性定理(joint concavity)
Lieb の凸性定理の証明スケッチ
対象の関数は
(A,B) \mapsto \operatorname{Tr}(K^{\dagger} A^{p} K B^{1-p}),\quad 0\le p\le 1
証明のアイデアは以下の通りである:
- ピンチング作用素(pinching)を使って対角化に近い形へ押し下げる。
- 変分表現(variational representation)を導入し、凸性/凹性を「ユニタリ平均」で判定する。
- Kubo–Ando 作用素平均の性質を利用し joint concavity を示す。
- この joint concavity が相対エントロピーの単調性を導く。
③ Araki–Lieb–Thirring 不等式
Araki–Lieb–Thirring (ALT) 不等式の証明スケッチ
不等式の形は
\operatorname{Tr}[(B^{r} A^{r} B^{r})^{q}]
\;\le\;
\operatorname{Tr}[(BAB)^{rq}]
\qquad (0 \le r \le 1, q \ge 0)
スケッチ:
- 主要手段は「対角化の代わりに単調関数とオペレータ変換を使う」という Araki の戦略。
- Hansen–Pedersen 型の operator monotone/convex 関数の性質を利用。
- 行列冪の比較を、Loewner 領域の単調性を通じて行う。
- 最後にトレースの単調性で主張を得る。
④ CLR(Cwikel–Lieb–Rozenblum)不等式
CLR 不等式の証明スケッチ
負の固有値の個数の上界
N_{-}(V) \le C_{d} \int_{\mathbb{R}^{d}} V_{+}^{d/2}(x)\, dx
スケッチの流れ:
- Cwikel による「弱型 \(L^{p}\} 作用素」の評価を用いる。
- Birman–Schwinger 原理により固有値の数が積作用素の“特異値”評価に帰着する。
- 積作用素が「コンパクト + 有界作用素」へ分解され、Lorentz 空間の評価を使用。
- 最終的に \(V_{+}^{d/2}\) の積分で界が得られる。
本記事全体のまとめ
- Golden–Thompson:\(Tr(e^{A+B}) ≤ Tr(e^{A}e^{B})\)。Lie–Trotter 公式が核。
- Lieb の凸性定理:joint concavity が相対エントロピーの単調性 → SSA を確立。
- Araki–Lieb–Thirring:行列冪の比較を operator monotone 性から導く強力なトレース不等式。
- Lieb–Thirring:固有値の \(\gamma\) 乗和の評価。多体系の運動エネルギーの下界にも応用。
- CLR 不等式:負固有値の個数の上界。Birman–Schwinger と弱型評価が鍵。
- 応用:物質の安定性、量子多体系、スペクトル理論、量子情報の基礎。

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